一生懸命な取り組みに、意味があるかどうかなんて関係ない。
その取り組みがいつどこで何に繋がるかなんて未知数だし、その時に正しいと思えた取り組みであれば、意味があるかどうかなんて関係ありません。
たとえば、あなたがプロ野球選手であるとします。
そしてスランプに陥っているとします。
不振で、スタメン落ちして、2軍かベンチ入りなのか分かりませんが、とにかく自分の不調、または自分の取り組みの問題点を見つけることが出来ずにいるとします。
第一前提に一生懸命である必要がありますが、その不振脱出という取り組みの中で、一体何をすればいいか分からないとします。
何をすればいいか分からないというよりは、自分のどこに問題の原因があるのかが分からないとします。
この状態であなたのできることは一体何でしょうか。
そうです。
意味の感じられないことをひたすら、がむしゃらにやり続けることが、あなたにできることです。
意味の感じられないこととは、例えば、こんなに練習しても意味ないよな、とか、この練習は意味ない、これをやっても意味ない等など、自分の思考、つまりマインドが拒否している取り組みのことです。
しかしここで理解しなければならないのは、マインドの拒否すること、マインドが意味ないと感じることは、魂、つまり生命力に繋がっているということ。
これをやっても収穫にならないから、これをやっても無駄だから、これをやってもお金にならないから、これをやる時間がないから。
これらは考えは成果主義の産物です。
人間の生命力と行動力を下げているものです。
あなたの一生懸命な取り組みに意味があるかどうかなんて関係ない。
意味ないことを、ひたすら、がむしゃらにやり続けた人のみが到達できる次元があるということを覚えておいてください。