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怒ることって悪いこと?
喜怒哀楽の中の一つである「怒り」という感情。人間だけでなく、自然界の生き物にはこの怒りという感情は誰もが持っています。そして人間の持つ怒りには2種類あります。ひとつは全ての生き物に共通する、威嚇や自己防衛としての怒り。そしてふたつは、何の目的を果たすこともない、自分の中で感じる他人や出来事への苛立ちです。この記事では後者の怒りについてとなります。
この考察における興味深い事実は、後者の場合、その他人がその場に居なかったり、その出来事が過ぎ去ったとしても、怒りを継続して感じる人がいるということです。つまり、その怒りを感じたところで、今この瞬間を脅かす出来事を回避できるわけでも、シチュエーションを変えることが出来ることもない「怒り」があるということです。果たしてこの怒りを感じることに意味や目的はあるのでしょうか。
さらに面白いのが、この怒りは自分で抜け出すのが困難であるという点です。なぜ自分が奴にムカついているのか、そしてなぜ自分は正しくて相手は間違っているのか等など、自分の思考で自分の怒りを正当化しようと、頭の中で架空のストーリーを語り始めます。その架空のストーリーは「自分」にとってのお話で、誰もが同じことを考えない可能性もあるのですが、怒りの行き先が無いため、「とにかく自分が正しいことを自分に繰り返し言い聞かせる」という罠にハマってしまいます。この罠こそ、「目的を果たさない怒り」の正体なのです。
POINT: 目的を果たす怒りなのか、ただ単に自分の正当化したいだけなのか。その違いを意識!
怒りをなぜ減らしたいのか
邪魔だからです。その感覚を持って生きることが、私達の創造活動にとって邪魔でしか無いのです。別の言い方をするのであれば、目的を果たさない怒りは全て無駄なエネルギーの消費、エンジンの空ぶかしとなってしまうということ。自分の燃料を使うと同時に、エンジンにもダメージがある。良いこと一つありません。そのエネルギーを別の創造に使えるのに、意味のない怒りで消耗してしまっては本末転倒。我々は他にすることが山ほどあるのです。
スティーブ・ジョブズがあの有名なスタンフォード大のコメンスメントのスピーチで「他人の人生を生きている暇はない」と言いましたが、今回のお話に通じるものがあります。それは、他人を自分の中で作り出し、それに怒っている暇などない、ということなのです。どう考えても無駄な消費であることが分かります。他人への怒りを減らすということは、より自分の人生を生きれるようになること、とも言えます。
感情に負けない自分を作る
感情は思考に対する体の反応です。思考と体が同一化している場合に、感情に飲まれてしまうという現象が起こります。しかし「負けない」という表現になると、感情と戦わねばならないという風に捉えがちですが、ここで言う負けないは「感情と同一化せずに、感情を俯瞰できるようになる」ということです。本記事にで取り上げている感情は「怒り」ですが、怒りという感情はどんなシチュエーションにおいても、取り組みの質を下げてしまいます。
情緒を安定させる
思考がブレるならまだしも、感情が不安定になってしまうと、体の機能そのもの、人生そのものが不安定と感じてしまいます。怒りの根本は自分を自由にさせていない場合や、とある状況を勝手な決めつけで悪者扱いしている場合が挙げられますが、四六時中何かにムカついていたら、物事が捗るわけがありません。生活的な安定の前に、感情的な安定を維持することが、健全な生き方の基礎となります。
人や物事に左右されなくなる
自分の人生、自分の取り組み、自分の体。一番知っているのはあなた本人です。怒りは大抵、外的要因、つまりに他人や出来事によって引き出される感情ですが、この怒りが全くもって意味をなさないことが分かれば、人や物事に反応しなくても良いことがわかるようになります。外的要因は外的要因に過ぎず、それらにトリガー(引き起こ)されるのが「怒り」の感情になります。些細なことで振り回されていた時の自分は、それを無意識に「気になるものリスト」に追加していたのです。この気になることがどうあなたの人生に役立つことなのか、振り返ってみてください。役に立つことはないでしょう。
怒りとムカつきの根源
ではこれらの感情はどこから発生しているのか。それがわかると怒りという感情の正体がわかるようになります。仕組みが分かれば良いのです。どういうプロセスで怒りという感情が発生するのかがわからないから、戸惑い、怒りに乗っ取られてしまいます。
無力感
むりょくかん。これは自分に現状を変える力が無い時に感じるものです。自分ではどうにもすることが出来ない。だから怒るしか出来ない。さてその怒りに実用性はあるのでしょうか。怒っている先は大抵の場合人になりますが、その人に怒り、なぜそうなってしまったのかを問い詰めたくなるようです。問い詰めたところで、時遅しであったのであればどうでしょう。果たしてその怒りに意味はあるのか。もし現状を変えられる、または打開策があるのであれば、怒らずに交渉すれば一番健全です。
高慢・傲慢
人は大抵、目上の人や、立場的に上の人には怒らないものです。この場合、どうにかして怒りの感情を言葉に変えて、感情をぶつけるのではなく、論理的に言及をすることでしょう。ということはです。怒りを誰かにぶつけている場合、あなたは勝手に上下関係を作り上げているのです。私のほうがあなたよりは上であるという幻想を作り上げています。それが友達同士であろうと関係ありません。あなたはその人より偉いから、その人に怒りをぶつけられる。そう思ってはいませんか?
過去の再生
これは共通の原因からトリガーされるものではなく、人それぞれがもつ過去の実体験やトラウマによってトリガーされる怒りです。そして注意しなければならないのは、これらの怒りは怒りの感情そのものが再生されている(繰り返されている)のではなく、自分が特定のイベント(出来事)と「自分」が同一化してしまっているためにトリガーされているということです。
「またか」「何度も言ってるじゃないか」などの思考が出てきた場合は要注意です。その出来事と怒りは別物で、そう感じるのは、出来事の内容からではなく、出来事どう捉え、どのような解釈をしたから、その怒りが浮上したのかを観察しなければなりません。
演出
自分と相手二人だけでいるときは怒らないのに、観客(家族のメンバー、友達、通行人など誰でも)がいる場合に怒りを見せびらかしたくなるようです。「見たまえ!『私』は『コイツ』のした『悪い』ことに腹が立っている!『みんな』見ろ!『コイツ』は許せない!『私』が『正しい』ことを証明してやる!」
不必要な怒りです。
ここで注目すべきは二重括弧の部分です。
『私』『コイツ』『正しい』『悪い』『みんな』
怒り演出のプロセスのひとつに、
「正しい私 対 悪い相手」
という式があり、さらに周りの人々(みんな)の同調を求めるという傾向があるようです。
欲望
欲望の裏にあるものが奪取です。半沢直樹1の東大阪スチール社長の東田がクラブで追い詰められたシーンを覚えていますでしょうか。東田は不正取引で12億円を溜め込み計画破綻。しかし半沢はそれを突き止め、その12億円を回収します。それが分かった東田は取り乱し、怒りの感情を半沢にこうぶつけました。
「オレの金返せぇ!」
欲望とも言えますが、自分以外の何かが「自分」と同一化してしまっていると(この場合はお金)、その対象が無くなると、自分がなくなったかのような喪失感に駆られ、怒りとして現れるようです。
自分を生きれていない
自分を生きるの意味は一体何なのか。自分の言動が下記のいずれかに該当すれば、自分を生きていない可能性があり、その自分への嘘が怒りの原因となる可能性があります。
- 誰かを見返すために物事を選択している
- 誰かの期待に応えようとしている
- 今の私は不十分で、完成するには何かを達成しなければならないと思っている
時間の幻想
あなたが追われているその時間は、実在する期限に基づいたものでしょうか。例えば、明日16時のフライトが決まっていれば、その時刻には確実に遅れてはならない、実在する期限であると言えます。もしそのフライトに間に合わないようなことがあれば、怒りとは関係ないレベルで「私は今行かなければならない」という選択ができます。切迫した状況でも冷静に決断できるのです。
しかしこれが時間の幻想となると「私には時間がない」という思考が、実用性のない怒りを浮上させ、あなたをコントロールし始めます。特にこの怒りは、想定外の出来事が起こった時などによく現れるようで、この仕組みを理解するためには、まずこの「私には時間がない」という感覚は、常に起動しているがとある出来事が浮上するまで感情がトリガーされれない、潜在意識的な状態であるということを理解しておかなければなりません。
この「時間の幻想」についての考察は、ここでは到底書ききれるものではないので、別の記事で改めて解説するとしますが、「こんなことやってる場合じゃない」とか「なんで今?」のような、心理的な時間からトリガーされる怒りが浮上した場合は、とあるあなたの決める重要なことを今やらなかったとして、本当に重大な損失があるのか?もしくは、本当にそこに「時間」はあるのか?自問してみると良いでしょう。
怒りを減らす方法
ここまでに書いた内容が理解できれば、どのように自分の怒りと付き合っていければ良いのかがわかるはずですが、怒りの感情コントロールをさらに上手に行うための心得を別の角度から見ていきましょう。
内容と感情を分けて捉える
内容とは、出来事のことです。同一の出来事を10人が経験したら、10人全員が同じ感情を感じるとは限りません。ということは感情はあなただけのもの、という方程式が成り立ちます。怒っても怒らなくても状況が変わらないのであれば、感情を切り離してその問題に向き合ったほうが楽だとは思いませんか?怒りそのものには役割はありません。そして怒ることが悪いというわけでもありません。
一人で怒ったところで何も得られることは無いと知る
これを心底から認めることが、怒りという感情を越えるために必要となります。自分の怒りを人のせいにして、一体何が得られるのでしょうか。相手も自分も気持ちよくはないでしょう。その上何が残りますか?気持ち悪さだけです。それよりも、なぜ今自分に怒りの感情が浮上したのかを掘り下げてみましょう。決して相手のせいではないと思います。自分が勝手に作り上げたルールを守れていない自分に嫌気が指しているだけだと思います。
怒りは自分の中からしか出てこないと知る
感情のスイッチは自分の中にある。この事実をあなたは認められるでしょうか。感情の仕組み自体はこちらの記事にて解説していますが、感情は思考と体がぶつかったときに発生する波動です。とある出来事を見て、感じて、初めて感情の波が出来上がります。怒っているのは相手のせいだ、と言いたくなるのはわかります。しかし本当のところは、相手の言動もしくは出来事を通じて、自分の中の怒りが浮上した、というのが正解になります。
さいごに
私自身も多くの怒りに悩まされてきました。自分の場合、大半の怒りはやはり、自分が自分を自由にさせていないことが一番だったと思います。さらにもう一つ重要なポイントとして、自分自身への怒りがほとんどであるということです。これはどういうことかと言うと、自分の持っている思考や、自分の持っているルール、自分の持っている善悪など、自分が決めつけたことが怒りの原因となっているということです。
さらに、まだ起こってもいないことに怒りを感じることもあります。これも自分が勝手に未来がこうなると決めつけ、存在もしていないその「確定したと見える未来」に怒りを感じたりと、巧妙なまでにこの怒りの感情は私たちを追ってきます。
しかし大丈夫です。この怒りの感情があるからこそ、私たちは私たち本来の姿に気づき、人間として成長できるようになります。この感情をコントロールし、自分を生きるためのアラート(目覚まし時計)と捉えることが出来れば、怒りは怒りではなく、本当に大切なこと(心から自由に生きること)のサインポスト(道しるべ)となってくれることでしょう。